そうかなあ
 
 
 
 インドの神様って、
 なんかユーモラスで、
 笑っちゃうんだけど・・・・
 
 
 だから、インドを支配した当時のイギリス人は、
 最初のころ、
 「幼稚だ・・・」と感じたようで・・
 
 先進国であるわれわれが、
 幼稚なかれらに、
 本当の宗教の崇高さを教えてあげなければ・・・
 と、かなり熱心になったらしいデス。
 
 
 まあ、おらは難しいことは論じないけど、
 街角に祭られている、
 こういう神様(写真1)で、
 
 
 
 みさなんは、どう思うかの・・・・?
 
 
 振り返れば、道にウシが寝そべってるしね・・・
 たとえば、こんなカンジ(写真2)で、
 
 
 ぜんぜん、なにも判らないで、
 こういう街角に来てしまったら、
 そりゃ・・・なんか、
 ものすごい違和感があると思う・・・・
 
 
 だれだって、見慣れないモノをみると、
 「・・・へんだよ・・」と感じるし、
 それまた、しゃーない感覚ですナ。
 
 でも真面目に考えれば、
 仏教は、アチラが先輩というか、本流で、
 天竺(インド)→中国→日本と伝わってきました。
 だから、パイセン(先輩)んとこの神様は、
 あんまり、悪く云わない方がいいと思うのね。
 
 
 でさ、
 
 ちょびっと解説すると、
 
 神様を、
 重々しい荘厳なイメージで表現するのと、
 パーみたいな感じの、ユーモラスな軽いタッチで表現するのと、
 
 どっちが人間にとって、有益か・・・
 という視点でみると、
 はっきり云って、パーの方が良いのです。
 
 出来るなら、
 ほとっほと、どうにもならないくらい、パー顔でヨロシイ。
 
 何故なら、
 そもそも表現できない、目に見えないお方を、
 荘厳な、いかめしい芸術タッチで描くなら、
 人間は、かれに服従せよ・・・みたいな感じになる。
 
 一方、パーで表現するなら、
 目に見えないお方は、人間に近い、
 もし困ったら、頼れる存在に感じることができる。
 怖くない・・から。
 
 
 こういうの、
 けっこう大切でね、
 
 例えば、
 産婦人科の男性医師が二人いて、
 
 ひとりはイケメンでしゅっとしていて、
 もうひとりは、ぼわ〜っとした感じの先生だった場合、
 
 繁盛するのは、
 たぶん、ぼわ〜っとした先生の方・・・
 
 
 女性ならわかると思うけど、
 イケメンの産婦人科医って、
 なんか、いやだと思う。
 でも、ぼわ〜っとした先生なら、
 安心して話せるというか・・・・
 
 
 だから人間って面白いモノで、
 宗教芸術で、あれはいいとか、すばらしいとか云っても、
 それは芸術のハナシで、
 
 ひとが本当に心を寄せる神様は、
 どっちかといえば、ぼや〜っと系がいいわけです。
 インドもネパールも長い長い経験をもってるので、
 そういう、民衆が心を寄せるツボを知ってるんデスな。
 
 お寺の入り口にある仁王像・・・
 どんなに芸術的な価値があっても、
 あの仁王様(金剛力士)に、
 弱い自分をみせてお願いするっていうひとは、
 あんまりいないんじゃないかなあ・・・
 おらは、猫背で、スススっと通りすぎるな。
 
 もちろん仁王様にも役割はあって、
 瞑想の初期段階に立ちはだかってくる困難は、
 この仁王様なんだすよ。
 でも、最終の神様は、できればパー顔であって欲しいし、
 最上位(最高位とは云わない)の神様がパーであるところに、
 インドの奥深さを感じるのでした・・・
 
 わかるべか?     さようなら。
 
 
 
 
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