洞 窟
 
 
 
 瞑想をやってるひとに、
 
 旅行するならどこがいいですか?
 
 と、アンケートを実施した場合、
 
 60%  インドの聖地
 20%  アメリカ東海岸
 10%  ネパール
 5%   ラサ(チベット)、
 3%   パトモス島(地中海のギリシャ領)、
 2%   エルサレム
 
 
  ・・・・なんて・・・こんなの、もちろん架空も架空、
 本当にアンケートした訳じゃないから、妄想アンケートで。
 
 
 
 でも、欧米人に聞いたらこんなもんかな・・・。
 エルサレムの支持票がもっと多いかもしんない・・・・。
 
 でも、瞑想って、結局は、自分の内心に迫る個人的な営みなので、
 聖地だろうが、自分の部屋だろうが、
 そんなんは、実際には、あんまり関係ないのだけど、
 
 
 初心者はどうしても「ミーハー」なので、
 有名な先生に関係する聖地は、
 一回は訪れてみたい・・・・
 という、ぼんやりとした希望や願望は、ある。
 
 
 当研究所の写真館だって、
 はやいはなしが、なんだかミーハー的な旅行記録なのです・・・・
 
 
 でもね、
 そういう聖地巡礼も、実際に行ってみれば、なんか、わかることもあるよ。
 時間とお金を費やして、行ってみて、何も得られない・・・ということは、あんまりない。
 
 
 いや、でも、あの、
 わての知り合いで、インドの最高聖地、ベナレス(ヴァラナシ)に行って、観光地特有のしつこいガイドにつきまとわれて、面倒になって、ホテルに引きこもったまま日本に戻ってきた、っちゅうようなひともいたけど、
 
 
 当人に云わせれば、
 ベナレスで瞑想できたから満足である・・・・
 
 
 みたいな、
 
 
 なんか、よくわかんない、そ〜かなあ・・という例外的なひともいるけど、
 たいていは、なにかしらの手応えを得るのだろうと思います。
 
 
 おらにも、まだ、行きたいけど行けない・・・
 っちゅう場所がある。
 
 地中海に浮かぶ、ギリシャのパトモス島。
 
 
 ここは新約聖書「ヨハネの黙示録」第一章第9節に記述されてる場所で、
 ヨハネが霊に満たされていた場所。
 
 ヨハネ先生の洞窟は、
 現在、世界遺産になっています。
 世界中から観光客がやってくるらしい。
 
 
 おらだって、ここは行きたかったし、現在でも行ってみたい・・・
 とは思うけんども、
 ほんとに・・・・・遠い。
 
 
 世界遺産だし、もちろん日本人でも行っておられる方はたくさんいて、旅行記みたいなのも読めますが・・・・うらやましい限りで。
 
 
 「遠い」っちゅうのは、距離の問題ではなく、
 飛行機の乗り継ぎとか、飛行機の便数とか、
 ちゃちゃっとは簡単に行けないから面倒なんで・・・
 
 
 う〜〜〜ん・・・・と迷ってるうちに、
 だんだん、行くのが面倒になってきた。
 
 人間とは身勝手なもので、
 瞑想の初心者の時は「行きたい行きたい!!」と思うんだけど、
 
 自分が頑張ってサマージを経験できるようになれば、
 観光としては訪れてみたい・・・とは思うけど、
 旅行する情熱は薄くなってゆくのね・・・・
 
 
 こんなのは、だれだって経験あると思うけど、
 
 情熱って、
 
 結局は、自分はまだ十分じゃない、とか、もっと上を目指そう、とか、
 
 
 そういう、エネルギッシュな野心があるときは情熱に満たされるし、
 情熱があるときは、がんがん攻めてゆく気分なんだけど、
 
 
 あ・・・・、これでいいのかな・・・
 というような達成感を得ると、
 情熱はいきなりしぼむ・・・・なんてことが、ママ、ある。
 
 
 パトモス島は、トルコの国境に近い地中海の小さな島なので、
 トルコ側から船で行けるかな・・・と、トーマスクック社の時刻表をあれこれ見たこともあるけど、ギリシャ領なので、トルコから渡航するのは無理ではないけどシンドイ・・・ことはわかった。
 
 実際、聖書(新約聖書)に出てくる土地で、
 聖人が瞑想をしていた・・・ことをイメージさせる記述はパトモス島くらいなので、だから行ってみたいけども・・・遠い。
 
 
 新約聖書によれば「霊に満たされていた」ヨハネ先生は、あれやこれやと不思議な経験をなさるのですけど・・・・
 
 こういう内的経験を「ウソだ」「トンデモだ」「ばかばかしい」と断定するひともいるだろうけど、どうなんだろう・・・。
 
 
 
 瞑想は、自分ひとりでできるので、
 試してみればいいだけのはなしである。
 団体やグループに属する必要もない。
 
 
 ものすごく単純なことなんだけど・・・
 
 
 試しもしないで否定するのは、科学的な態度ではなく、
 
「怪しいことは否定する。それが科学的的態度である」という信仰になっちゃうからね。
 
 
 パトモス島におけるヨハネ先生の経験は、
 記述通りではないにせよ、
 似通った経験は、瞑想の上級者であれば通ってゆく過程です。
 
 
 人間は、ひとりひとり違うので、
 まったく同じ経験というのは、あり得ないけども、
 おおむね、ま、そうだよね、
 ま、そういわれてみれば、そうとも云えるよね・・・
 そんな、感じなんだす。
 
 
 物理や化学の実験と違うのは、ココで、
 けっして同じ結果ではないし、客観的な証明は出来ない。
 でも、個人的経験では、そ、だいたい、そんな感じ・・・・
 という類似の経験を味わって、
 
 同じような類似の経験をしたもの同士が、
 あ、あんたもか!!
 
 というのが、上級者同士の「互いを認める」挨拶です。
 上級者といっても、いろんな種類があるので、
 ここでは、「霊に満たされる」というところから次に展開してゆくレベルで語ってます。サビカルパサマージからニルビカルパサマージに移行する前後の段階かしらね。
 
 
 
 まあ、ヨハネ先生の「霊に満たされていた」という新約聖書の記述は、
 ヨガナンダ先生も、難解だ・・・と云われたけど、
 なんじゃろな・・・・と思うこともいっぱいある。
 わかるところもあるけど、
 わかんないところも、いっぱいある。
 
 
 インドの聖典だって、
 わかんないよ・・・とか、
 それはちがうでしょ・・・
 と、思うことがいっぱいある。
 
 
 ラーマクリシュナ先生は、
 聖典は、勉強しすぎると、有益というより害がある・・・・
 と教えられた。
 
 
 おらも、その通りだなあと思う。
 ガッコの勉強と違って、
 まったく同じ結論(正解)はないから、
 
 
 ごちょごちょ考えてないで、
 
 
 自分に自信がない人も、自信がある人も、困ってる人も、幸せな人も、自分で試してみれば、いろんなことが判ると思うよ。  ばい。
  
 
 
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