アーナンダ モイマ
 
 
 ヨガナンダ先生の「自叙伝」に「至福に浸る聖女」として登場する女性の聖者。
 
 瞑想の最高境地は、「こっちの方があっちより上級」とか「あっちは、こっちより下」とかいう、下世話な比較を拒むところがある。
 アーナンダモイマ先生をみていると、それがよくわかる。
 
 一般に、瞑想の探求者は、テクニックを駆使して「あれをこうして・・」「そこはこうやって・・」と、理詰めで道を進んでいこうとする傾向がある。テクニックを知ってるものが偉く、テクニックを知らないものを蔑む。これは、瞑想の探求分野が、伝統的に男社会のなかで形成されてきたからだと云える。
 
 アーナンダモイマ先生は、9歳の時に、自分が住んでいた村のお祭りの人形−−たぶんハリボテ人形−−を見ているときに、その人形から光の球が飛んできてハートに入ったときから「こうなった」−−自由自在にサマージに入る状態−−と述べておられる。
 
 光の球が飛んできてハートや喉(ヴィシュッティ・チャクラ)に入ることは、高位レベルに達することのできた瞑想の探求者であれば、普通に経験していることである。
 驚くべきは、それが9歳の少女に起きて−−なんの訓練もしていない−−、そのままの状態を晩年までキープした点である。
 
 これを説明できるのはラーマクリシュナ先生が語った「酔っぱらいのエピソード」である。ある男が、ちょっとした量の酒を飲んだだけでべろべろに酔っぱらった。おかしいな・・と思ってよく話を聞いたら「おれは昨日からずっと飲んでいる」という落語のような噺(はなし)。アーナンダモイマ先生は、前回の人生で十分な訓練を積んで、ちょっとしたきっかけで「いつでも神に酔える状態」で生まれてきたのだろう。
 
 アーナンダモイマ先生の境地は、実に味わい深い。インド哲学で云われる二元論・一元論等々、古代から議論されてきたさまざまな究極のテーマに深く関係する無限の広がりをもった神聖サンプルである。
 
 
 
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