本課程の学習内容 3
 
 
 本課程では、聖者の言葉を英語をつかって解釈することがあります。
 
 
 
   どういうことかというと
 
 
   例えばです。
 
    はたらけど
    はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり
    ぢっと手を見る
                 −−−石川啄木「一握の砂」−−−
 
 
 日本人なら、これ、情景が浮かびますね
 
 でも、リアルにイメージしようとすると「手」は「手全体(hand)」なのか「手のひら(palm)」なのか「手の甲(back of the hand )」なのか、わからなくなってしまいます。
 
 
 複数の解釈が生まれます。
 
 
 こうやって、解釈は複雑になってゆきます。
 
 瞑想の分野はリアルに理解するべき内容がたくさんあるので、不明瞭な日本語によって解釈の分岐は無限になってきます。なんとなくわかるけど、リアルにイメージしようとするとハッキリとはわからないことが多いのです。
 
 
   なので
 
 
 英語で解釈した方が素直にわかることは、英語を参照します。もちろん日本語訳も示します。
 
 
  もうひとつ、瞑想のポイントについて。
 
  パラマンサ・ヨガナンダ先生の「自叙伝」の第24章に、聖者ラムゴ・パール先生の言葉があります
 
 ヨガナンダ先生が「眠らぬ聖者」=ラム・ゴパール先生(ラヒリ・マハサヤ先生の高弟)に、「サマディの経験を与えてください」と頼んだときの、ラム・ゴパール先生の言葉です。
 
 
 Your body is not tuned just yet. As a small lamp cannot withstand excessive electrical voltage, so your nerves are unready for the cosmic current. If I gave you the infinite ecstasy right now, you would burn as if every cell were on fire. 
            −Autobiography of a YOGI  original edition−
 となっています。
 
 
 ラム・ゴパール先生の言葉で重要なのは、
「Your body is not tuned just yet. 」
という部分です。
 
 
 「お前の身体はまだ小さなランプみたいなもので大きな宇宙電流に耐えられない」という言葉が後段に続くので、原文で言いたいことは「お前の身体は、まだ宇宙電流(生命エネルギー)への備えがされていない(十分に霊化されていない)」というニュアンスであることがわかります。
 
 
 
 ラム・ゴパール先生の言葉は、とても重要です
 
 
 瞑想を長年やっているひとのなかには、ヨガと座禅を同じように考えて、精神統一とか心頭滅却とかの境地に到ろう・・・と頑張っておられる方も多いように思いますが、それは、ちがうのです。
 
 
 割り切って云えば、ヨガの初級〜中級段階は、脊柱を通して生命力(プラーナ)を脳と身体に蓄えることが最重要課題となります。
 
 瞑想はプラーナを自分の意思でもってコントロールするもので、静かに精神統一だけをやってるわけではありません。
 
 
  静かに座っているようにみえても、瞑想の実践者は、内的な意識操作であれこれ忙しいのです。
 
  ニルビカルパ・サマージにたっぷりと習熟して、圧倒的なエネルギー感に満たされて恍惚となる状況に至るまでは、本当の意味での無念無想の境地にはなりません。雑念が消えればOKというようなものではないのです。眠って熟睡すれば雑念はなくなりますが、瞑想は、明瞭な意識を保ちながら莫大なエネルギー感の中で雑念を消すものですので、これはなかなか難しいのです。
 
 
    それまでは
 
 ひたすら、ガンガンと脳と身体に生命エネルギーを貯蓄していくわけです。
 
 どちらかといえば体育会系の動的訓練であり、文化系的な静的訓練ではありません。毎日が真剣勝負です。
 
 
 もちろん、瞑想の実践では、ほかにもやることがいっぱいあります。
 
 
 
    あれこれ忙しい。
 
 
    前進するための文献学習−−座学−−も必要です。
 
    これらが最上位のレベルまで続いていきます。
 
 
 脳と身体に生命エネルギーを貯蓄する練習を続けると、脊柱を上昇するプラーナ量が徐々に増大して、意識(精神)の活動が鎮まってきます。それでも、最高レベルに達するまでは雑念(精神のゆらぎ)は発生します。
 
 
 日本人の常識として、心頭滅却、明鏡止水、精神統一というと、静かに座って瞑想している様子をイメージすると思いますが
 
    でも
 
 人間の精神は動くのが本性ですから、目を閉じて静かにすわっていても、絶対に無念無想にはなりません。そういうことも理解しなければ、自分の瞑想はダメだと思い込んで、いつしかやめてしまうのです。
 
    自分をダメだと思ったり
 
    がっかりしたり
 
    自分を否定したり
 
 
 こういうのは、道をふさぐ大敵です。
 
 
 
 みなさんは、握力を鍛える「パワーボール」という器具をご存じでしょうか?
 
 特殊構造の球体で、手首をまわすと内部の部品が加速度を増して回転し、遠心力がものすごいエネルギー感をもって手に伝わってきます。
 
 
 瞑想で経験する高位サマージは、パワーボールと同じように、圧倒的なエネルギー感をもって身体と脳に浸透するものですから、それに耐える地道な訓練が絶対に必要になります。
 
 
 一方、日本人の多くがもっている常識的な精神統一のイメージは、静止した野球のボールを手に持ってじっとしている状態と云えます。
 
 
   動的ではありません
 
 
 圧倒されるようなエネルギー感もないし、躍動感もないし、すべてをひっぱがして無念無想を実現する恍惚感−− エクスタシー −−もありません。
 
 
 
 イエス・キリスト先生は、
 
    「富(treasures)は、天に積みなさい」
 
 と云われました。
         −−マタイによる福音書 第6章第20節
 
 
 
 この言葉
 
 単純にして、明快。
 
 
 
 本課程では聖書も参考にします。
 
 
 瞑想は、座ってじっとしていればサマージを経験できるほど甘くはありません。
 
 
 
      ま、
 
 ぐちゃぐちゃ考えないでやってみようと単純に考える人は大歓迎です。
 
 
 
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