本課程の学習内容 2
 
 
 本課程では、瞑想の偉大な先人の話題がでますので、例えば、こういう具合に学びましょうという例を挙げておきます。
 
 
 
 「わたしの先生(スリ・ユクテスワ)は、『プラナーヤマが信仰だ』というのが口癖だった。なんだか、いやだった・・」
               −−−パラマンサ・ヨガナンダ先生−−−
 
 
 ヨガナンダ先生が、カルカッタ郊外のセランポールで学んでいたとき、師匠であるスリ・ユクテスワ先生は、信仰=プラナーヤマ、と割り切った考え方を好まれたそうです(「The PATH」)。
 
 「自叙伝」にも書かれていますが、ヨガナンダ先生は信仰深い性質だったので、自分の師匠の冷めたような冷徹な口癖にがっかりしたのでしょう。
 
 
 しかし、その後、ヨガナンダ先生は、「信仰=プラナーヤマ」の本当の意味を理解していくようになります。
 
 
 瞑想の道を歩んでいくとき、だれでも「自分は信仰をもってるのだろうか・・・?」と疑問になるときがあります。だいたい信仰ってなんだろう・・・・と考えるひともいるでしょう。
 
 
 
 結論から云いますと、瞑想アカデミーの本課程(上級コース)では、信仰はあっても良いし、なくても良いという立場をとっています。
 
 
 これは当アカデミーの独自見解ではありません。SRFでは、きびしくそれを求めないことをSRF会員ならご承知のはずです。クリヤ・ヨガは、目に見えないお方を信じなくても簡単に出来るテクニックとして世界中に普及した経緯があります。
 
 
    もう少し説明しましょう。
 
 
 瞑想をしようと思うひとは、世俗的なふつうの人間に較べれば信仰をもっていると云えるわけです。
 
 ところが、ちょっとやってみると、目に見えないお方や信仰に疑問をもち始めます。
 
 
 目に見えないお方はいらっしゃる・・と思ってみたところで、見えるわけでもないし、しゃべることもできません。
 
   お願いをしても、なんだかあやふやです。
 
 
 ですから「自分は絶対に信じない」と思ってしまうひとも出るわけです。
 
 
   信じないひとのことは責められません。
 
 
 だって、目に見えないお方は見えないし、さわれないし、しゃべることもできないのですから。
 
 でも、信じないというひとだって、本当に困ったら、目に見えないお方にぶつぶつ−−しつこく−−自分勝手な頼み事をするのは、経験しているはずです。
 
 
 目に見えないお方を信じているひとは、おおむね素直です。
 
 
 でも、目に見えないお方はみえないし、さわれないし、しゃべることができません。「信じてますよ!」と云ってみたところで、目に見えないお方からの反応がないので、いつか忘れることもあります。
 
 
 偉大な先達は、みな、目に見えないお方を自分の意識の中に迎え入れて、激しい反応エネルギーの中で融合し、十分に満足して日常生活を送りました。
 
 
 疑うことすらばかばかしい状態に達していたのです。
 
 
 しかし、世間の人にそれを云っても無駄なので、聖者は黙っています。
 
 
 サマージは個人的に経験できる毎日のごく普通の経験ですが、それを客観的に他人に見せたり機械や装置を用いて証明実証することは不可能です。なので、聖者は黙るしかありません。
 
 
 普通のひとにサマージの経験をさせれば、みな驚くでしょうけど、そんなことも出来ないのです。脳や身体に圧倒的なエネルギーが流入するので、十分な準備が出来てない限りそのひとを危険にさらしてしまうからです。また、リアルに追体験できるようなシステムは、最新のCG技術を用いても不可能です。
 
 脳と身体を圧倒的なエネルギーで融かしてゆく神聖な直接経験−−サマージ−−は、地道に実力を蓄えていく以外には経験できません。
 
 
 瞑想の道を進んでいく者にとっては、目に見えないお方は見えないし、さわれないし、しゃべることもできないのですから、そうであるならば、いないに等しいと考えるひとがいても良いし、目に見えないお方は絶対にいるんだと頑固に信じても良い。
 
    どっちでも同じなのです。
 
 
 
 目に見えないお方は「かくれんぼう遊び」をしてるんだよと、ラーマクリシュナ先生はよくおっしゃいました。でも泣きながら探し回ったひとには、かならず姿をあらわす。それが目に見えないお方の「かくれんぼう遊び」。
 
 スリ・ユクテスワ先生が「プラナーヤマが信仰だ」とおっしゃった理由は
 
 
 まだ個人的な内的経験として高位の意識を経験していない者にとっては、あれこれむずかしいことを考えないで、「自分は毎日プラナーヤマを実践している」
 
       だから、
 
 「自分は信仰をもっている」というくらいに、気楽に割り切って自信をもって瞑想しよう−−信仰をもっていないんじゃないかと心配したり落ち込まないでサ−−という、励ましの言葉だと理解しておけばいいのです。
 
 
 先人の言葉は味わい深いので、言葉の表面を批判するより、尊敬の念をもってかみしめるほうが自分のためになるでしょう。
 
 味わい深い先人の言葉はいっぱいありますが、それを全部説明してゆくのもなんなので、少しずつ説明してゆくようにします。
 
 
 
               予備課程 レベルGの目次へ戻る