ふたつのタイプ
 
 
 瞑想を行うひとのタイプは、ふたつあります。
 
      要するにです、
 
 
 ひとつは、目に見えないお方を信じて瞑想するタイプ(バクタ)。
 
 もうひとつは、目に見えない存在とか霊とか死後の世界とか、そういうのはあんまり信じないけど、理性的に識別を重ねて瞑想を行うタイプ(ジュニヤーニ)。
 
 
 どっちが良いとか、どっちが優れているという問題ではなく、これは持って生まれた当人の気質なので、どちらでも構いません。どっちもOK。
 
 
 目に見えないお方を信じるバクタだって、生活の中で苦しいことがあると疑うこともあるし、目に見えないお方を信じないジュニヤーニだって、幸運が続くと思わず感謝することもあって、両者をきっちりと区別することにさほどの意味はないです。人間って、そんなもんです。それでいいのです。あんまり難しく考えると苦しくなって破綻します。気楽に考えるのも人生の道。こんなもんだべ、と60点〜70点くらいで割り切るのも「牛のよだれテクニック」です。
 
 
 信じて瞑想を行うひと(バクタ)は、瞑想のコツをつかめば、最終段階にたどり着く可能性が高いといわれます。
 
 
 このタイプのひとは、何度も地上世界に人間として生まれ変わってきた輪廻転生のベテランで、生まれながらに目に見えないお方を信じ、進歩も早い人が多いです。それはそれで、しかたがない。偉いとか立派というより、そうなって生まれてきたのだから、ま、仕方がない。恥じることも、悲しむこともありません。
 
 一方、理性的な識別によって瞑想を行うひと(ジュニヤーニ)は、全体の仕組みさえ理解すれば、爆発的に前進します。
 
 最後まで神様を信じない「豪の者」でも、バクタを抜き去ってポールポジションを奪うことがあります。
 
    これは、本当です。
 
 有名な聖者ヴィベーカナンダ先生の「ヴィベーカ」は「識別」という意味です。ヴィベーカナンダ先生は、最後までイエス・キリスト先生を認めませんでした。師匠のラーマクリシュナ先生は、ご自身はイエス・キリストを深く敬愛していましたが、そういう弟子のヴィベーカナンダを深く愛しました。
 
 ヴィベーカナンダ先生は、神を認めないという発言を繰り返しましたが、内弟子の最高位の霊性ポジションにいることを当時の仲間も疑いませんでしたよ。これも、持って生まれた気質なので、仕方がありません。良いとか悪いとか論じるだけ無駄です。
 
 
 瞑想による進歩は、当人の気質、カルマ、熱心さ、理解の程度、などによって大きく変わってきます。霊的資質に満ちているのに、目に見えないお方を信じないひとが日本や欧米には大勢います。
 
  信じる信じない、そんなことは、どうでもいいのです。
 
 
 ヨガナンダ先生のSRFは、どちらかと云えばジュニヤーニ向きで、ラーマクリシュナ先生の教えは、どちらかと云えばバクタ向き・・・と考えられがちですが、実際のところは、ヨガナンダ先生は弟子たちに信仰を求め(バクタ気質をもつこと)、ラーマクリシュナ先生は弟子に識別と放棄(ジュニヤーニ気質をもつこと)を求めました。
 
 
 ちがう登山道を歩いても、同じ頂点を目指している以上、やることは結局は同じです。
 
 それが瞑想の道です。
 
 信じるとか信じないとかは、すべて初級〜中級までのはなしです。
 
 圧倒的なエネルギーをもった純粋意識を日々に経験すれば、日常意識のレベルで議論するむなしさを痛感します。
 
 日々を道徳的に生きている人は、若干の努力と一定の手順さえふめば、超人的な特別の才能がなくても、高い確率でサマージを経験できます。ふたつのタイプなども、まったく関係ありません。どっちでも良いのです。
 
 
 
               予備課程 レベルGの目次へ戻る