ラマナ・マハリシ先生のわたし
みなさんは、ラマナ・マハリシ先生をご存じでしょうか?
南インドに住んでいた聖者で、アメリカから一時帰国したヨガナンダ先生もわざわざ逢いに行っています。
ヨガナンダ先生は、ここの僧院の雰囲気がとても愛すべきもので、お弟子さんも素晴らしかったので、「あと30分あそこに長居したらアメリカに帰る気になれなかった」と後年述懐しています(「THE PATH」)。
ラマナ・マハリシ先生(「ラーマナ・マハリシ先生」と表記することもあると思います)の教えは簡単で、「わたしとは何か」「おのれとは何か」を瞑想の中で突き止めなさい、というものでした。
かれのお弟子さんは、それだけの教えで瞑想していました。
煩雑なテクニックも使わないし、難しい哲学も議論しません。
それでいて、ヨガナンダ先生が「もうアメリカに戻りたくない」と思うような、優れたお弟子さんがいらっしゃっいました。ラマナ・マハリシ先生は「自叙伝」の日本語訳では第41章の最後に簡単に触れてあるだけですが、SRFのお弟子さんたちに語ったところによれば、深い印象が残ったそうです。
「自叙伝」の初版本にはラマナ・マハリシ先生のことは書かれておりません。ヨガナンダ先生のインドへの一時帰国は初版本が出版された後でした。
南インドは、ヨガやヒンズー教の聖地がいっぱいあります。古代には南インドは霊性探求の本場でした。現在はいろんな事情で北インドばかりが注目されていますけども。
ヨガナンダ先生も、ラマナ・マハリシ先生の単純な指導法には心酔したようですが、これは実際にはめちゃめちゃ難しい話です。
いきなり「おのれとは何か?」と云われても、普通のひとは、
・・・へ?
ってなもんです。
しかも、ラマナ・マハリシ先生は、それに対する答えとか説明とかも一切なさいませんでしたので、普通のひとはついていけません。
ふつうのひとは、です。
もっと、こう、テクニックとか、あれこれの説明とか、そういうのを求めるのですが、それも一切なし。
ラマナ・マハリシ先生の言葉は、数少ないですけども、日本でも翻訳本が出版されているので読むことはできます。
「沈黙の聖者」というタイトルで出帆新社から出版されています。
帯のサブ・タイトルは「私は誰か・・・。」
ま、ふつうのひとが「私は誰か・・・。」というオビみたら、アホらしいと思うのでしょうけど、これこそがヨガの究極命題で、ヨガナンダ先生も「偉大な問いである」と記録されています(「自叙伝」41章最終段ちかく)。
ラマナ・マハリシ先生の言葉で、みなさんが心に留めておくべきは、
心によって心を発見することはできない。
心はないということを発見するために、心を超えて進め。
心(精神)は、粒子のコーティング層(コーシャ)です。
ふつうは、心が何より大切と信じられていますが、本当にそうなのか?
これが、聖者のメッセージ(ヒント)です。
「心はない」というのは、
じぶんの心(精神)を最終の宝石だと思うな、
その奥にはもっとすごい宝石が隠されてるのだよ、
というメッセージです。
粒子の構造を知っているみなさんは、少しはわかるでしょう。
瞑想意識がチッタ(こころ)の奥の中心核に達すれば、心はない、と断言せざるを得ないのです。
瞑想しなければ、こころが最終の宝石です。
しかし瞑想してる人にとっては、こころは最終の宝石ではなく、宝石に至る仮の意識領域にすぎないわけです。
こころは、コロコロ変わります。
年齢によってもかわるし、人生経験によっても変わるし、生活環境によっても変わるし、いつも変転します。
そのような変転する感情は、一過性のものであって真実ではないよ、と聖者は教えるのです。
ただ、瞑想中の意識を浄化するにしても、学習や瞑想によってチッタ(こころ)を鍛錬しないと−−−野放しのままにしていると−−−チッタ(こころ)は、けっして自身の不存在を理解したり肯定したりしませんよ、というのがラマナ・マハリシ先生の教えです。
1879年生まれ、1950年没。
当時、最も有名な聖者のひとりでした。
−−−−おまけ−−−−重要−−−−とっても−−−−
あのです。
「真実を云うと、こころはないのだ。」
という聖者の言葉を真に受けて、「そーなのか、こころなんかないんだ」と思って日常生活を送るとすれば、
それはあなたにとっても不幸なことだし、
あなたのまわりにいるひとにとっても不幸なことです。
聖者が云う、
「こころはない」という言葉の意味は、サマージの中で、その本当の意味を自分で経験して納得しなさい、ということであって、
ことばの表面だけにしがみついて、普通の生活の中で「こころとか精神なんて実際にはないんだぜ」
なんて、
わかりもせずに粋がってみせるなら、ばかですよ。
聖者だって−−ラマナ・マハリシ先生だって−−−、普通の日常意識に戻って生活するときには「こころ」はあるのです。
人間として、それは、あたりまえのことでしょう?
ラマナ・マハリシ先生は、僧院で飼っていた子牛(ラクシュミ)を愛していましたし、弟子たちも愛していましたし、多量のユーモア精神もありました。「愛情に満ちたこころそのもの」の生活を送っておりましたよ。
「こころはない」
というのは、深いニルビカルパ・サマージのなかで経験することであって、
それは冷たい、冷徹な意識ではなく、
”自分自身”という”個別のこころ”は、深いニルビカルパのなかでは消え去って、もっと大きな意識と一体となって、喜びに満たされるよ、
という、
そういう意味です。
粒子のコーティング層に過ぎないチッタ(こころ)を脱すれば、もっと素晴らしい意識領域の、無条件エクスタシーを味わうのです。(注;「エクスタシー」というのは哲学用語です。勝手にへんな想像をして誤解しないこと!)