雑念が生ずる理由
瞑想中に生ずる雑念は、主として理性(ブディ)の働きによって生み出されます。
人間の実体である理性粒子は、表面に理性(ブディ)が露出しているので、眠っているとき以外は、理性の働きを抑えるのは困難です。
古来からの聖典の教えによれば、睡眠中は、意識が虚空に同調しているので、理性は何らの想念も生じさせません。
しかし、瞑想中は、意識を眉間等に集中させていますので、理性は覚醒した状態を保っており、忙しく働ける性能をキープしています。このため、どんなに「理性よ鎮まれ!」と命令しても、理性はせっせと働こうとするのです。
これは、理性の本性(本来の機能)ですから、どんなに努力しても絶対に治りません。
せっかちなみなさんは、じゃああああああ、どうすればいいんだ、はっきりさせろ、と思うでしょうけど、いまは瞑想の実践の中で最も難しいテーマを学習していますので、そこのあなた、黙って聞きなさい。
ね、これから理性の性質をもっと深く理解しますよ。
人間(理性粒子)の本性を聖典はこう教えています。
For ye shall go out with joy, and be led forth with peace:
「まことに、あなたがたは歓びをもって出て行き、平安に導かれて行く。」
−−旧約聖書イザヤ書第55章12節−−
この一節、けっこう大事なんです。
みなさんは、この一節から、どのような印象・感想をもちますか?
読み急がずに、ちょっと立ち止まって、考えてください。
この一節だけで、サマージ経験者は一週間くらい議論できそうです。
いま、みなさんにしゃべっていることは、ヨガの根本に関わることで、軽く受け流すことが出来ないテーマです。学校の先生なら「ここ、試験に出ますよ」というような重要テーマであることを知っておいてください。
聖書イザヤ書の一節は、要するに、「われわれ人間は、歓びをもって(目に見えないお方から)飛び出してきた。それでも、目に見えないお方は(われわれをちゃんと)安らぎに導きますよ」と述べているのです。
このことを、ちゃんと理解しないと、瞑想なんかやってられません。
われわれ人間が、目に見えないお方と無関係に生まれ、無関係に育ち、自分の自由意思だけでもって生活を営み、目に見えないお方と無関係に寂しく死んでいくなら、瞑想なんか何の役にもたたないのです。
さて、です。
イザヤ書の一節からは、
@ 目に見えないお方と人間は無関係ではない
A 人間は、目に見えないお方のもと(ふるさと)から飛び出してきた
B そのとき、われわれ人間は歓びをもって飛び出してきた
などの意味が、読み取れます。
聖書だけでなく、インドでも同じように教えます。
ヨガナンダ先生もおなじです。
何故、われわれは、目に見えないお方のもと(ふるさと)を飛び出してきたのでしょう?
聖書に限らず、各種の聖典は、「外の世界を味わい楽しむため」、としています。
ここらは哲学的なことなので、それが正しいのかどうか、議論しても瞑想の役にはたちません。
たたないのですが、雑念を消すヒントは与えてくれます。
われわれ人間は、歓びをもって外の世界を楽しむために飛び出したのだから、どういう生活環境であれ、理性は、歓びを生み出す役目を果たそうと一生懸命がんばる、ということです。
これが理性の特徴です。
テレビのバラエティー番組を夢中で見て笑ってるときは、楽しいので、理性は真剣にそれを楽しみます。
好きな音楽を聴いているとき、素晴らしい映画を見ているとき、面白い小説を読んでいるとき、こういうときは、理性は雑念を生じさせません。
その一方デス。
瞑想するとと、どうなります?
視覚を通した映像もなく、耳を通した音もなく、
静かに黙って目を閉じていると、理性は、自分の任務や責任−−−−人間の意識を楽しませ・喜ばせる−−−−に目覚めます。
過去の記憶を引っ張り出し、過去の記憶に基づいてあれこれ考え、未来を仮定し、あれこれ考えて楽しませようとするのです。
こういう理性の働きは、人間が生きていくのに絶対に必要です。
しかし、瞑想のときは邪魔。
この項では、ここまで理解してください。
まとめます。
人間は、目に見えないお方のもとを歓びをもって飛び出し、目に見えないお方の外の世界を楽しもうとしていること、理性はその支援をしていること、だから理性はいつでも一生懸命に働こうとする性質があること。
われわれ人間は、目に見えないお方から飛び出した理由も故郷もわすれて、理性が作り出す想念(エンターテイメント)を大切にしながら、日常を生活しているわけです。
目に見えないお方のもとに戻る訓練−−瞑想−−をうまくやるには、こういう理性の特性を知った上で、瞑想中に理性が作り出す想念を減らしてゆくことが必要になります。そうしないと理性コーシャを脱することは出来ないからです。