初期サマージ
サマージ(samadhi;サマーディ)の原義は、組み合わせること、結合すること、です(梵和大辞典)。瞑想においては、「最高我への専心状態」と翻訳されます。
日本のウィキペディアをみると、「瞑想等における深い精神集中」と説明されていますが、ニュアンスが違うように思います。
梵語(サンスクリット)の原義である、結合すること、組み合わせること、という理解の方が語感としてしっくりきます。
こういうことについて、若干の説明をします。
サマージと云えば「ニルビ」だ「サビカ」だと云う自称評論家が世界中にたくさんいるのですが、そもそもサマージとは何かを考えてみましょう。
いつでも、事物の根本に立ち戻って考えることが大切です。
なんだってそうでしょ?
表面的な、上滑りの思い込みや議論ほど虚しいことはないからです。
瞑想の最初のころは、目を閉じて座っていても意識がアッチにふらふら、コッチにふらふらするので、気合いを入れて精神集中してないと30分も座ってられません。
これは、みなさんもご承知の通りです。
ところが、あるときから意識がふらつかない状態、ロックされたような感じになる状態がやってきます。
ウンマナです。
努力しなくてもふらつかないので、精神集中というような気持ちも失せてゆきます。
慣れれば、かなり簡単に意識が不動の状態になりますが、そのときには精神集中なんかは必要がなくなっています。
もっと上に進み、ニルビカルパ・サマージに入れば、「efortless samadhi」と云われるように、まったく努力なんかもせずにサマージに入ります。このレベルの実習生は、精神集中しようなどと云う気持ちはまったくもっていません。
それはともかく、ウンマナは初期サマージです。
つまり、努力しなくても瞑想意識がバラけない状態で、最初のころは若干の精神集中を維持しようと−−習慣なので−−努めますが、慣れてくれば、努力しなくても瞑想意識がバラけないことが体得できるので、ウンマナに入った実習生は「精神集中」という強迫観念から自由になります。サマージは精神集中が不要になる状態です。
ですから、サマージや瞑想を精神集中だとか精神世界だとかの「精神」で捉えるのは、根本的に違うことをを、みなさんはきちんと理解してくさい。お願いしますヨ。
瞑想の目的は、一切の精神活動からサマージ意識が自由になることにありますから、精神集中とか精神世界とか「精神」の次元で捉えていると、瞑想の本質をはき違えることになります。ここの部分、理解、お願いします。
精神を脱して瞑想意識を保てるのか? と思っている限り、サマージには入れません。
そういう彼には、意識を保つために「精神」が必要です。
精神活動を脱した意識は「クルクルパーに等しい」とか「眠ってるに等しい」とか、そう信じている限り、瞑想意識は「精神」の拘束下に置かれたままなので、高位サマージに入るのは不可能です。
でもです。
ウンマナは、高位サマージではありませんから精神活動がともなっていても入れます。そのときの瞑想意識には理性もあり、心もあり、感覚意識も混じっています。たっぷりと。
ウンマナは、次段ステップに移行するには非常に重要な期間です。
ウンマナは、可能な限り精神活動−−理性、心、感覚意識−−を低減させてゆく練習段階(サビカルパ・サマージ)の「前準備の期間」です。
何故、瞑想中に精神活動がたっぷりと残っているウンマナを「サマージ」と呼ぶのかと云えば、立派に「結合」しているからです。
はてさて、何が何に結合しているのか・・・?
こうことを考えるのが、ウンマナを経験しているときの主たる学習課題です。
ここでは安易に結論は述べません。
自分で、考えてください。
考えてるうちに「こういうことを考えてる自分とは何だろう?」と思うようになれば、さらに良い。
ウンマナを脱して次のステップ(サビカルパ)に移行する準備が整ってきた証です。
この項で、みなさんに理解してもらいたいことは、サマージは精神活動に起因するものではないこと、精神活動が活発でも初期の「結合」は経験できること、です。
上のレベルに行くに従って、精神活動がサマージ深度を妨げることに気づいて、サマージ中の意識のもちかたにも改善を迫られるのですが、それは別の機会に説明します。
まずはウンマナに慣れること、習熟すること、です。
その経験を十分に積み重ねた上で、何が何に結合してるのか、自分なりに考えてください。
だからと云ってデス、あまり真剣に考えてノイローゼにならないで下さいよ。一年、二年かけて、ゆっくりとした気分で日々に軽く意識してゆけばいいのです。
急いで結論を得ようという能率優先・効率優先の心では、なにも判りません。