回 答 例 22
問題 22
「奇跡的能力をもっているひとが聖者である」という考え方があります。これについてあなたの考えを述べなさい。
【回答例 22】
どういうことを「奇跡的能力」と呼ぶのかによって違いますケドも、これも誤解されやすいことです。
そもそも「聖者」というのは「解脱者」なのですが、「解脱」にもいろいろなレベルがあります。
そして、「奇跡的能力」は、「解脱のレベル」とは無関係な場合もたくさんあります。
例えば内的ビジョンが見えるか否かは、「解脱」のレベルとは無関係です。最後まで行っていても内的ビジョンが見えないケースもあります。
逆に、低いレベル−−「解脱」してないレベル−−でも、内的ビジョンが見えることもあります。
パタンジャリ先生は奇跡について語っておられますが、それを「サマージにとっては障害」と述べておられます(ヨーガ・スートラ第3章第37節)。
この指摘こそ瞑想の正道です。
ヨガナンダ先生の「自叙伝」のなかに、ケシャバナンダ先生のことが書かれています。マハバータ・ババジにも霊的指導を受けている聖者です(第42章)。
「自叙伝」を読むと、完璧な聖者であるように思いますが、ケシャバナンダ先生は、当時、最高位レベルに達することができませんでした。いつも、師匠であるラヒリ・マハサヤ先生に諭されていたそうですが、ラヒリ先生が教えて云うことは、毎回、
「奇跡の能力に執着するな」
ということだったそうです。ケシャバナンダ先生は奇跡に対する強いあこがれがあって、それが最後の関門となっていたようです(「THE PATH」)。
ラーマクリシュナ先生は、奇跡の能力を示すことはありませんでした。
ヨガナンダ先生は、アメリカで生活していたときは、いくつかの奇跡を示しておられます(「THE PATH」)。
奇跡の能力について、みなさんの意識のなかに誤解が生ずるのは、奇跡は聖者自身が行っているという一種の「錯覚」があるからです。
このあたりのことがきちんとわかれば、もっと理解できるでしょう。
自分で考えてみてください。
「子は何も出来ない」と云われたのは、イエス・キリスト先生でした(ヨハネ福音書第5章第19節)。この言葉の意味をかみしめましょう。
「自叙伝」に書かれていますが、盲目の弟子に、「目が見えるようにしてください」と頼まれて「自分にそんなことはできない」と断ったラヒリ・マハサヤ先生は、まさにキリストの如き聖者です。このときのエピソードも、十分に注意しながら読んで、自分なりにかみしめてください。
面倒なはなしになるので、このへんでやめておきます。