回 答 例 17
 
 
問題 17
 「ふしだらな人間に神の加護はない」という考え方があります。これについてあなたの考えを述べなさい。
 
 
 
 
 
 
【回答例 17】
 
 これも誤解されやすいことなんですけど、目に見えないお方は、その人の生き方に干渉しません。
 
 ふしだらであろうが、不真面目であろうが、犯罪者であろうが、善良なふりをしたワルであろうが、差別なく、愛してますし、加護してます。
 
 そうでなければ、かれらが心を入れ替えるチャンスはありませんでしょ?
 
 「お前はいままでろくでもない生き方をしてきたので加護しない」というのであれば、救われる道が閉ざされます。
 
 目に見えないお方は「差別を立てない」ことをモットーとしておられます。
 
 世俗に生きる善良なみなさんは、すこし考えてみましょう。
 
 「ひとを裁くな。自分が裁かれないようにするためである」
           (マタイ福音書7章1節、ルカ福音書6章37節) と云われたのは、イエス・キリスト先生です。
 
 
    みなさんは、この言葉を忠実に守っていますか?
 
 
 善良な人々が、憤りをもって不真面目な人を責めるときは、「自分のことは棚にあげて」ということが多いでしょ?。
 
 ま、それは、それで、いいのです。
 
 そうでなければ、善良な社会はたもてません。
 
 でも、自分の目から見て不真面目だと決めつけたひとが、本当は良い人だったという人生経験、ありませんか?
 
 犯罪は、法律によって裁かれます。
 これは必要です。
 
 犯罪行為ではないけれども不道徳であるとかマナー違反であるとかいう行為は、カルマの法則によって当人に反射して、必ず、かれら自身が痛い目にあう仕組みになっています。これも必要です。
 
 今回の人生で痛い目に遭うとは限りませんが、次回、または次々回の人生で、帳尻合わせの仕組みが作動します。
 
 娼婦であるマグダラのマリアが、姦淫の罪で民衆に石打ちの刑を受けようとしていたとき、キリスト先生は、
 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。と云われました(ヨハネ福音書8章7節)。
 
 あのひとは「ふしだらだ」「不真面目だ」と口に出して非難する前に、自分はそういう過ちを犯したことがまったくないのか、目に見えないお方から見ても完璧に正しい人生を送ってきたのか、0.1秒でも良いから振り返ってみましょう。
 
 他人を批判することで自己満足するよりも、いろんなひとがいるけど、いろんなひとがいて楽しいヨ、というくらいの余裕をもって生きた方が人生は豊かになります。とはいえ、実際にはあたまにくることもあるので、そういうときは思いっきりバカヤロー! と叫んで、あとはスッキリ忘れるような生き方ができればいいですね。
 
 恨んだり、根にもったりすると、それが自分のカルマになって自分自身に反射する可能性があるので、みなさん、注意しましょう。
 
 
 
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