回 答 例 1
 
 
問題 1
「霊性を高めるには絶対の放棄が必要である。従って、霊性を高めるには人生に夢や希望をもつべきではない」という考え方があります。これについてあなたの考えを述べなさい。
 
 
 
 
 
 
【回答例 1】
 まあ、一理はあるのです。
 しかし、こんなことを云ってたら普通の生活が出来ませんネ。
 
 
     放棄は、必要なんです。
 
 なぜなら、瞑想中に雑念が生じないようにするためです。瞑想中に、自分に関係するさまざまな「しがらみ一切から離れる」ために必要なのですが、一方で、日常生活は普通に行うべきです。
 
 放棄は、内心の放棄で良いのです。現実に、財産を処分したり、有り金全部を寄付したりする必要なんかありません。内心で、執着から離れていれば十分です。
 
 われわれが地上世界で生きる意味は、霊的にさまざまなレベルの人が混じり合う社会で、ごちゃまぜにされながら、いろんなことを学んでゆくためです。
 
 ヨガナンダ先生は、この地上世界を「金床(かなとこ)」と呼びましたが(自叙伝)、まさに厳しい「金床」です。
 
 霊的に優れた人々だけが集まっていれば絶対に起こらない犯罪や社会問題が絶えず起きて、ごちゃごちゃした、騒々しい世の中で生きていかなければならないからです。でも、こういう騒がしい世の中で生きるからこそ、いろんなタイプの人がいるなあと理解できるし、目に見えないお方はあれやこれや忙しいだろうなあと思うことが出来ます。
 
 幽界では、霊的レベルに応じた社会で生活するので、レベルが高い人は常に平穏で、幸福で、悩みなく、苦しみなく生きると云われます。しかし、そうなると、だれも修行なんかしませんヨ。何もしなくても平和で幸福で満足できる状態がいつまでも続いたら、神様は不要です。
 
 この地上世界でも、無神論を気取る人の多くが、経済的に恵まれた家庭環境で育っているのも同様の理由です。苦しい生活、悲しい出来事を経験した人は、自然とこころの中で神様に苦情を訴えるか、神様に救済を求めた経験があると思います。
 
 さて、この苦しい「金床」である地上世界に生きるとき、夢をもってはいけないとか、希望をもってはいけないとか、そんなことを考えてたら、人生を楽しむことは出来ません。
 
 
 人生を楽しむことは、まったくもって悪いことではありません。
 
 自分よがりな身勝手さや執着心によって社会に迷惑をかけたり、自分自身でガンジガラメに縛られない限り、普通に、楽しい夢や希望をもってハツラツと生きることになんの問題もありません。
 
 ヨガナンダ先生が、アメリカ時代に、翌日に迫った債務処理に困って、気合いを入れて瞑想して神様に文句を云ったら、目に見えないお方に「もっと人生を楽しみなさい」と諭されたエピソードが残っています(THE PATH)。
 
 放棄の心は貴重ですが、それが過ぎてせっかくの人生が味気ないものになってしまったら、すべてが台無しです。
 
 瞑想だって人生を楽しむ一環としてやっていれば、じょじょに実力が身についてゆくし、それに従って、もっともっと人生に大きな喜びを見いだすようになるでしょう。
 
 「修行中の身ですから・・・」とか云って、経済的に困窮しているわけでもないのに、映画も見ない、旅行もしない、一切の娯楽は意識的に避けますという姿勢は、感心しません。
 
 みなさんは、普通に夢と希望をもって、毎日を楽しく生きてください。
 
 放棄を、形式的、表面的に捉えるのだけはやめましょう。
 
 
 
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